歴史と自然あふれる境内

佐鳴湖湖畔に広がる境内には、浜松駅より15分ほどの立地ながら自然が多く残り、水が湧く小川などにはホタルが飛び、サワガニが群生しています。本堂南には本格的な平成の枯山水庭園が広がり、訪れた人を楽しませています。
また、史跡・文化財なども多く残り遠州地域の歴史を今に伝えています。
龍雲寺住職紹介 あいさつ
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住職紹介・挨拶は こちら からご覧ください。 |
龍雲寺境内写真 『写真で見る龍雲寺』
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龍雲寺の境内を写真でご覧いただけます。 こちらより |
龍雲寺会館のご案内 『お寺で費用をおさえた心温まる葬儀を』 葬儀通夜・各種会場として
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葬儀通夜会場として・各種催し物会場として 食事会場として、地域の方なら自由にお使いいただけます。 こちらより |
龍雲寺由緒 『龍雲寺の歴史 南北朝時代から現代まで』
開基 木寺宮康仁親王

今も残る宮様のお墓
龍雲寺ができたのは、今から約七百年前(南北朝時代)です。開基(寺院を開創した方)は、御二条天皇の御皇孫にあたる木寺宮康仁親王です。康仁親王は、天皇になる正当な血筋でしたが、後醍醐天皇の台頭によりその道が断たれ、東国に下向され、現在の龍雲寺東墓地あたりに御館を建立され、さらに祈願所として御館の南西に寺を建てられました。これが当龍雲寺です。寺を開くにあたり、後に普明国師と仰がれる立派な方を勧請開山として迎え、康仁親王の第二子を出家させ、龍雲寺第一世となさいました。
全山消失
![]() 龍雲寺山門 ![]() 薬師堂 |
木寺宮家は康仁親王以後二百五十年あまりに渡り、ここにお住いになっていました。康仁親王より八世(赤津中務少輔)の時代、元亀三年(一五七二年)に武田信玄が徳川家康と戦った三方が原の戦いが起こりました。宮家は、開山普明国師が武田家菩提寺の恵林寺の弟子で甲斐の国出身であった御縁から、合戦の際に武田方の味方をした為、合戦後の天正8年(一五八〇年)十月に、家康の軍勢に攻められました。宮家は自ら建物に火を放ち、信州を抜け越後方面へ逃げたと言われています。この兵火により、本尊阿弥陀如来像と山門を除く寺の建物は、すべて焼け落ちてしまいました。現在の山門は地震で潰れたものを二百年前に再建したものですが、屋根には鯱瓦があがり兵火以前の名残を見ることができます。 |
龍雲寺再興
![]() 龍雲寺しだれ桜 |
世は徳川の時代となったため、寺の復興もままならない時代が続きましたが、ようやく元禄時代の天下泰平の時を迎えたとき、中興開山鳳髄丹和尚が現われ、龍雲寺を再興されました。復興された本堂は仮本堂と呼ばれ、兵火以前のもの(十五間に九間)に比べ、かなり控えめなもの(八間に六間)となりました。現在の本堂は、この時に再興されたもので、敷居・柱など材の多くは元禄のものがそのまま用いられています。以後現在に至るまで諸堂の復興は進み、兵火以前には及ばないものの、中本寺としての体裁を整えつつあります。 |
龍雲寺の寺宝
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御本尊阿弥陀如来坐像 浜松市指定文化財 平安後期作とされるご本尊阿弥陀如来坐像。 優しいお顔がとても印象的です。 本堂内に安置され、拝観自由です。 |
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家康公御判物 天正8年(1580年) |
家康公からの判物 家康公より攻められるわずか五ヵ月前、写真にあるような判物をいただいております。それまでの所領約四百石を没収した後に百壱石を許すという内容で、家康公の堪忍分の恩情味がうかがえます。以後、徳川各将軍より御朱印をいただいており、今も大切に保管しております。 |
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龍雲寺大涅槃図 縦2.5m横2m 天和二年(1682年) |
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白隠禅師達磨図 これらの他に白隠禅師書画・東嶺禅師書画等が伝わっています |

















